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葬儀社はなんでもやってくれる

何度も繰り返してきたように、お葬式は基本的に習俗なのですが、それを仏教は仏教なりにいろいろと意味づけ、神道は神道なりに工夫して意味づけてきました。
そうした習俗や地域の特性、各宗教の意味づけなどを知ることによって、わたしたちは仏事や神事に向き合う時、自分なりの態度が選択できるようになるのではないでしょうか。
その意味で、現代宗教、特に仏教とお葬式の関係でビジネス化してしまっているような諸問題を、わたしたちはどのように考えていけばいいのでしょう。
たとえば、よく問題にされることに、お坊さんに対するお布施と葬儀社の料金の問題があります。
これをごちゃ混ぜにしている方も多いのですが、まずお坊さんと葬儀社は違うということをよく認識するところから始めましょう。
お坊さんへのお布施に料金表はありませんが、葬儀社には相場があります。
葬儀社ならパンフレットや見本を見せ、「松竹梅どのクラスにしましょうか」と聞いてきます。
そして、祭壇の大きさや飾りの内容の違いを示して選ばせ、それ相応の料金を取ります。
逆にいえば、お葬式というものは、葬儀社任せにすれば完結できるということです。
お葬式を安く済ませたいということであれば、それはそれなりにやってくれます。
だれも呼ばないでやってくれと言えば、葬儀社はそのような形でやってくれるでしょう。
「子どもが四、五人集まってやりたい、それ以上なにもいらないんだ」と言えば、葬儀社は割り切ってそうやります。
だから、葬儀を出すほうのその気持ちを明らかにすることのほうがずっと大事だということになります。
ではお坊さんを呼ぶ、あるいは神主さんを呼ぶ、または神父さんや牧師さんを呼ぶということになった時、喪家の人がどう考えているのか、むしろ葬儀社やお坊さんの問題より、そのことのほうが問われます。
たとえば自分が信仰する新興宗教でやりたいというなら、それはそれでやり方が決まってきます。
ある新興宗教では、友人葬といってお坊さんを呼ばず、仲間が全部やってくれます。
その代わり、香典は教団が全部持っていきます。
お経はみんなであげて、必要なことは教団の仲間がすべて執り行うわけです。
一応、お葬式の核になる部分はそれで全部済むわけですから、喪主というか、喪家の人がそういう認識をしているかどうかということです。
それでいいというならそれまでです。
また、特定の信仰を持たないで、身内だけで死体の処理を済ませればそれでいいというなら、今度は葬儀社が全部やってくれます。
ですから、喪主がそれ以上なにをやりたいかが問われるのであって、その人の意思によってお葬式の形は大きく変わることになります。
そんな時、今の日本人の大半は、葬儀屋さんにある程度お任せということになってしまうのではないでしょうか。
そうやってお任せコースにしてしまうと、葬儀社はお金をもうけたいですから、それ相応の料金を取られます。
その代わり、お任せすれば、「お寺さんだって何宗でも連れてきますよ」と言って、お坊さんの手配までしてくれます。

臨終後の諸手続きについて

臨終後の諸手続きについて、非常に分かりやすく解説しています。
その他、訃報の連絡方法なども詳しく記載しているので、参考にして下さい。
家族葬、葬儀|臨終後の諸手続き(http://www.corsage.biz/)

葬儀社とお坊さん

顧客(?)の要望をなんでも聞いてくれる葬儀社は、便利といえば便利ですが、これがお坊さんと癒着すると人々の大きな反感を買います。
また、お寺やお坊さんに対する不信感を生みます。
一般の人の仏教離れに拍車をかけている原因のひとつは、この葬儀社とお坊さんの癒着にあるのではないでしょうか。
お坊さんも収入源を確保しなければ生活ができないということはわかりますが、みほとけの弟子としての誇りまでは手放してほしくないものです。
聞くところによると、「お葬式を紹介してやったらいくらバックマージンをくれるか?」と葬儀社に露骨に聞いてくるお坊さんは今や珍しくないといいます。
ちなみに、葬儀社にお葬式を紹介した場合、お坊さんに支払われる紹介料の平均は葬儀料金の一割だそうです。
たとえば二百万円の葬儀なら、紹介したお坊さんはそれだけで二十万円もらえるわけです。
反対に、葬儀社からお坊さんに、「お葬式の導師として喪家を紹介するから、お布施の三割をバックマージンとしていただきたい」といった話も日常的にあると聞きます。
つまりお布施の上前をはねているのですが、これは三割がだいたいの相場だそうです。
本来お布施と葬儀料金はまったく別物なのに、それを混同してしまう要因を葬儀社とお坊さんが作っているという側面もあります。
布施とはもともと欲や執着を捨てさせていただく行であり、葬儀料金は商行為として定められる定価です。
それなのに、「地獄の沙汰も金しだい」などという印象をばらまき、「坊主丸もうけ」などと陰口をたたかれる原因を葬儀社とお坊さんが作っているようでは、それこそ葬儀社とお坊さんだけに、みずから「墓穴」を掘ることになるのではないでしょうか。
気をつけたいものです。

魂の処理と魂の処理

原則として、葬儀社が行うのはあくまで肉体の処理です。
しかし、庶民の感覚としては、先ほどの魂と塊ということでいえば、どこか二〇パーセントくらいは魂の部分にこだわりがあります。
その部分で故人に成仏してもらいたいという気持ちがあるというのが、庶民の本音ではないでしょうか。
だからわたしは最初に、お葬式には死者の肉体の処理と魂の処理という二面性があるんだと言ったのです。
そして、肉体の処理は葬儀社で十分にできるわけです。
問題は魂の処理ですが、ほとんどの人がこれはお坊さんを呼ばないとできないと思っています。
しかし、わたしはそこをもう一度考え直してほしいと思うのです。
魂は、どのように処理するのがいちばん理想的なのでしょうか。
それを考える時、二つの方向性が出てくると思います。
つまり、一つは魂を「邪霊」と見て、その恐ろしい霊魂がわたしたちにたたるからこれを鎮めようという考え方です。
もう一つは、そうではなくて、魂は安らかなものなんだという見方です。
亡くなったうちの父ちゃんの霊魂がたたるわけはない。
あの父ちゃんの魂は、いつでも優しく自分たちを見守ってくれていると考えることです。
わたしは後者のほうがいいと思います。
うちの父ちゃんの霊魂はたたるんだ。
よこしまなんだ。
だからなにか仏事をやらないとわたしたちに不幸をもたらすんだというような強迫観念で故人を見るのでは、わたしは亡くなった人がかわいそうだと思います。
ところが、今多くのお坊さんたちが口にするのは、「先祖供養をしないと故人の霊が浮かばれませんよ」というようなことです。
わたしがお坊さん方に認識してもらいたいと思うのは、「仏教でなければ霊魂を鎮められない」などと言えば、それは脅しになっているということです。
-お坊さんを呼ばないことには、霊魂が浮かばれない
-お坊さんに供養してもらわなければ成仏できない
そんなことであれば、脅しです。
故人や遺族の魂を鎮めること自体は、大事な仕事なんです。
では、正しくそれを行うのにはどうしたらいいのか。
それは、心の中で次のように思って合掌することではないでしょうか。
「あなたは今お浄土へ行きましたね。遺族であるわたしたちは、お浄土でのあなたの幸せを願っています。わたしたちがお願いしなくても、ほとけさまがあなたを幸せにしてくれることはわかっているのですが、一応わたしたちからも”お願いします”と手を合わせますよ」と。
それでいいんだと思うんです。
ところが、今のお坊さんたちも葬儀社も、「それではだめなんだ。儀式をやらないと浮かばれないんだ」という無言の体制を容認しています。
でも、それは一種の脅しだと思うのです。
そこがいちばんの問題点ではないでしょうか。

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